音楽の魔力、キャストの魅力、あるいは映画としての評価は他で語られているので書かない。自分が原作も舞台も知らずに観てこの映画の虜になった、そのごく個人的な理由を書いておく。

物語の枠組み設定自体に、「ツボ」に来る諸要素がありすぎた。
・Outsiderすなわち「異質・疎外・孤立」というモチーフ。
・演劇祝祭空間：冒頭オペラ座楽屋裏がまず映る、あの数分でみごとにやられた。
・地底湖：潜在意識に何があるせいか知らないが、TTTの時にも書いた通り、これが出ると無条件降伏。おまけにゴンドラと仮面が、ヴェネツィアに恋をした記憶を刺激する。
・仮面（ペルソナ！）！　できうる限り隠し通さねばならない醜貌と恃むに足る才能。この設定だけで、いかに下手な小説だろうと、ルルーの原作は捨てることが出来ずに本棚に隠しておいたに違いない。

フォーサイスがルルーの原作の欠陥指摘の中で「エリックがペルシャとか諸外国を旅したというのはあり得ない。それならその期間に醜さとも折り合いをつけられたはずで、こんなでたらめはない」と書いている。これを読んで私は「この人は何も分かっていない」と確信した。経験が無い限り理解できないのは仕方ないが、これだから彼には「怪人」の後日譚としてこともあろうに陳腐なアメリカ移民サクセスストーリーしか書けないんだ、というのは措いといて、

「お前は醜い」と生みの母親から幼児期に刷り込まれたら、自分の容貌が世間一般的に見て「たいしたことはない」などと、冷静に判断できはしないのだ。その上成長後どう社会的に成功しようが、たとえ良き配偶者と子供にまで恵まれた幸福な結婚生活を20年送ろうが、「自分は醜い」と鏡を忌み恐れる気持ちが消滅することはないのである。耐え難い痛みが幾分薄らぎ、思い出さずにいられる時間が少しずつ長くなりはするが、できるものなら誰にも見られないところへ逃げ込みたい願望は死ぬまで消えることはない。

スーザン・ケイについては生い立ちも何も知らないが、実母から普通の愛され方をしなかったという少なくともその一点で彼女はエリックの悲劇に共感が成立している。そう確信するのは彼女描くところのエリックの幼少時代に、彼に仮面を強制した母親が「罪滅ぼしのように沢山の料理を作っては食べるように迫った」という一節があるからである。わが子を虐待する親、は想像力でも実例を材料にでも書けるが、飢えさせられたのではなく食べきれない量の手抜きなしの食事を出される苦しさ、というのは経験者にしか思いつかない（と私は勝手に思う）からである。哀れなその母は、鬼でも悪魔でもなかった。しかし聖母にもなれなかった。彼女も苦しんだのだということでついにはエリックも母を許したかもしれないが、それでもその死に顔は醜かったというところに、スーザン・ケイの癒されない傷が投影されている。

そのどちらの苦しみも、知ることなく生きてきた人にとってはくだらないものでしかないのだろう。だから「あの程度の顔で何もあんな」と悪気もなく残酷なことが言えるし、設定にリアリティがない、ということにもなる。

さらに、あまりにも個人的な（「ファンタジーというのはとても個人的なものなのです」Off板No.672）話としては、自分しか知らないはずの夢をビジュアルで見せられた衝撃があった。地下へと降りてゆく夢、古びた石造りの、先の見通せないカーブした暗い階段をくだる夢を子供の時から繰り返し見ていた。私の階段は映画のそれよりも幅が狭く、左回りではなく右回りだとか、彫刻などないとかいう違いはあるけれど、その粗い石組みの壁の灯りはいつも、黒い鉄の枠に摺り硝子のカンテラだった。映画を観ていて、その下りた先に黒い馬が待っていた衝撃、さらには暗い静かな水面が広がっているのを見た時の涙は、誰に理解してもらいようもないのだが。

私の夢ではかつてその水の向こうには渡れなかった。私はその自分の夢に入り込み、黒衣の仮面の男によって、夢の向こう側へ運ばれた。あの不思議な、あり得ない時間をもう一度掴もうとして、私は何度でも劇場に通っているのかもしれない。

“ 閉じ込められていた 夢想がひろがる
　　自分だけの　あの暗い上にも昏い夢を ― ”